正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

張良

道教が弟子に施す教育は「点化」という、機縁に基づいて適した時機に要点・要訣を示す啓発式の教育法が用いられる。この道縁と仙縁を重んじる道教思想は、効果的に物事を始める「時」を重視した『易経』や、世の変化を起こす天の「機」を説いた『陰符経』からも伺える。「時」と「機」を融合させた道家哲学は、時を「運」とし、機を「縁」とする道教教理となった。道縁が未熟で時運が不相応であれば、弟子の素質は磨かれず原石のままだが、適時に点化して導くことで磨かれて光を放ち、一切の迷いから解き放たれる。

漢朝の文武両面での多大な功績は、現代の中国人が自民族を「漢人」「漢族」と称することからも伺うことができる。漢の高祖劉邦は、漢朝創立に貢献した謀士の張良・将才の韓信・相才の簫何ら「漢初の三傑」をよく用いて重んじたことが中国統一を導いたとしている。張良は三傑の筆頭とされ、劉邦は彼を「帳の中に策を巡らし、千里の先で勝利を収めることにかけては、私ですら張良には及ばない。」と讃え、中国古代随一の「謀聖」として称賛されている。

三傑の中で張良は後世に渡って広く崇敬された。権謀術数に長けた知性のみならず、功を成した地位に甘んずることなく即座に身を退ける超然とした処世術も称賛された。彼は三傑の中で唯一、後を成した後に身を退けて天寿を全うした。劉邦が皇帝となり、漢朝の都と臣下への封地を定める際、彼は三万戸の封地を謝絶し、劉邦との出会いの地である小地方の「留」県(今の江蘇省沛県の東南)を記念として封地とするよう求め、「留候」として封じられた。以後、道家の道を修めることに専念し、穀物を絶ち、仙術を修め、迅速に朝廷の権力から身を遠ざけて命を保った。

張良は兵法・謀略に精通し、三寸の舌で帝王の師となり功を成し、さらに道家の処世の智慧を備え、晩年を穏やかに過ごした。伝説によると、彼の人生は仙人との数奇な出会いによって書を伝授されて以後、大いに変化したという。

黄石公伝説

張良は戦国時代の韓(今の山東省及び河南省一帯)の生まれであり、先祖は五代に渡り宰相を歴任してきた。このような名門の家に生まれた彼には宰相としての将来が約束されていたが、秦によって祖国が滅ぼされたことで彼は若くして一気に亡国の民へと落ちぶれた。秦王は彼の家から財産を没収しなかったため、権力を失ったとはいえ身分相応の暮らしができた。しかし彼は、自身の富貴は祖国によってもたらされたものであり、その恩に報いるべく仇を討つべきと考え、家財を売り払い、金を積んで武芸に秀でた刺客を密かに求めた。ついに力士と共に博浪沙で始皇帝を襲撃したが、力士が始皇帝の車に投げた鉄槌の狙いが外れて属官の車に当たり、暗殺は失敗に終わった。

始皇帝は大いに怒って犯人の捜索を命じ、お尋ね者となった張良は姓名を変えて河南から千里の先にある下邳(今の江蘇省邳州市)に隠れた。ここで彼は「圯上の老人」- 姓名が明らかでない仙人「黄石公」との人生最大の出会いを果たすこととなる。

張良が橋の上で老人と出会うと、老人は自分の靴を橋の下に放り投げ、取って来るよう言いつけた。貴族の生まれとしての誇りを捨てていなかった彼は、賤しい身なりをした者からこのような指図を受けたことが今までに無かったこともあり、屈辱を覚え、頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来て差し出した。すると老人が足を突き出して靴を履かせるよう言いつけたので、怒りを抑えながら靴を履かせた。こうして老人が彼に言った言葉こそ、故事成語にもなっている「孺子可教(孺子教うべし)」であった。彼が立派になる価値のある若者であることを称賛したのであった。また、己を抑えて年長者を敬って教えを請うた彼の姿は、後世に「圯橋進履(圯橋に履を進む)」という故事成語を生んだ。

老人が五日後の明け方に再び会うよう告げたので、時間通りに張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ており、目上の人間を待たせた無礼を罵り、再び五日後に来るよう言いつけて去った。五日後、彼は一番鶏が鳴く前に家を出たが、既に老人は来ており、再び罵った上で五日後に来るよう言いつけて去った。そこで彼は、何としても老人より早く待ち合わせようと決め、四日目の夜から橋の上で待ち伏せしていると、しばらくして老人がやって来た。老人は試練を果たした彼に書を渡し、「これを読めば帝王の師となれる。十年後に功を成し遂げ、十三年後に済北(今の山東省と河北省の境)に行き、穀城の山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである。」と言った。この出会いが歴史書の言うところの「圯上受書(圯上に書を受く)」である。

張良は老人から書を授かった後、発奮して日夜これを研鑽し、十年後に留県で劉邦と出会い、謀士として漢朝の成立に貢献し、老人の予言通りに帝王の師となった。十三年後に劉邦と共に済北を過ぎた時、穀城の山の麓で黄色い大きな石を見つけたので持ち帰って祠に祀り、死後には一緒に墓に入れられた。今の山東省済南市平陰県に「黄石仙踪」があり、黄色い石が元々あった場所とされている。

黄石公伝説の解釈

張良の伝奇は歴代の文人によって評論・解釈されてきた。一般的に「圯上受書」が張良の人生の転機であり、「忍」により物事を大成し、「先」により敵を制し、「礼」により報われるという寓意を含むとされる。道教の観点に立つと、黄石公は彼に五つの教えを授けたと考えられる。

まず、二人の出会いは本当に時機を得たものであった。道教の神仙故事に見られる師弟関係には弟子が名山を遍歴して師匠を尋ねる、または師匠が自ら弟子を訪れ「点化」するという二種類の形態が見られる。前者は祖天師張道陵が江蘇から四川に至り中国の大半を遊歴したように、師との出会いの機縁を探し求め、後者は張良のように、弟子の素質を認めた師匠の側から適切な時機に出会い導いていく。何を以て黄石公は彼の素質を認めたのか。彼は家財を売り払って祖国のために仇討ちをしたことで、恩を知り我が身を捨てることができ、始皇帝暗殺を計画し実行したことで勇敢さと実践力がある者と分かる。まだ不足な点はあるにせよ、磨き上げれば逸材となる。

また、師匠が弟子を点化するにあたり、素質以外にも適切な時機を待つことが必要となる。張良に素質があるとはいえ、祖国が滅亡する以前の貴族として豪奢な生活を送っていた時に黄石公と出会ったところで、素直に耳を貸すとは考えられない。彼が全てを失い、お尋ね者となりながらも、仇を討つ志を抱き続けていた時、彼の全意識は一縷の可能性へと向けられていた。この時こそ道教の「点化」が最大の効果を発揮する時機である。すなわち、弟子の素質が十分な段階に達して外的条件が満たされた時、師匠がただ少し導くだけで、弟子は自ら道を体得できるようになる。

「道本無言(道の本は無言なり)」と言われるように、道教的教育というものは書物の解釈や暗記を主とする儒教的教育法や、学校教育での教授を主とする西洋的教育とは異なる。道教では弟子が自ら学ぶことを重んじ、師匠は一冊の書を与えて少しばかりの要点と注意点を示すだけで、後は弟子自らが観察して考え、疑問点を見つけて判断しながら道を体得していく必要がある。

黄石公の五つの教え

張良が師の教えを積極的に求め、学ぼうとする志が最も強かった時、黄石公は五つの教えを授けた。

第一の教えは身を慎むことである。『史記』留候世家によると、張良と初めて出会った時の黄石公は褐(皮と布で作られた粗末な衣服)を着けた見すぼらしい身なりの老人として現れたという。一方、暇にまかせて橋の上を散策していた張良の衣服についての描写は無いが、優雅な貴族風情を捨てきれていない彼のことであるから、きらびやかで美しい絹の衣を着けていたであろうことは容易に想像がつくことで、外見だけでは張良の方が高貴であった。弟子を点化する師匠として威厳を示しても良いはずの黄石公が、わざわざ見すぼらしい身なりで現れたのは、『老子道徳経』に「聖人被褐懐玉(聖人は褐を被て玉を懐く)」と言われるように、道教における聖人は外見からは分からない素晴らしさを持ち合わせていることを示すためであった。また、「光而不耀(光りて耀かず)」とも言い、普段から自己を過度に目立たせず、平常心を保って謙虚に人と接して事を運ぶべきである。ましてや、お尋ね者となりながら目立った振る舞いをして身を慎まない張良の態度は相応しいとは言えない。これが、人は常に身を慎み振る舞うべきであるとする黄石公の第一の教えであり、張良以降の子孫にも受け継がれ、歴代天師の立ち居振る舞いの基本となっている。

第二の教えは耐え忍ぶことである。『史記』にはっきりと描かれているように、貴族の生まれとして思い上がっていた張良が、賤しい身なりをした黄石公の無礼に頭に来て殴りつけようと思う気持ちを抑え、屈辱に耐えて靴を履かせ、幾度となく理不尽に罵られても耐えたことで書の伝授を受けた。耐え忍ぶことは、重圧に耐えて大事業を成し遂げる上で欠かすことのできない能力である。

第三の教えは適地を選ぶことである。二人が出会った「圯」とは土の橋である。黄石公が張良との出会いの場として平地ではなく、わざわざ土の橋の上を選んだのには理由がある。先秦時代の貴族は剣術を好んで学ぶ風紀があり、剣を帯びることは護身としてのみならず身分と地位の象徴でもあった。張良は、お尋ね者でありながら身を慎むことを知らず、貴族風情を捨てきれず、当然のことであるかのように剣を帯びていた。黄石公はそのような彼を点化させるために、まず自らの身の安全を確保する必要があった。道教が一貫して「度己度人(己を度し、人を度す)と言うように、まずは自身の身を保ち、余力があれば有縁を済度する。だからこそ、黄石公は張良との出会いの場として幅の狭い土の橋の上を選んだ。人がすれ違うことのできない狭い橋の上で待っていれば、張良は立ち止まらざるを得ないし、怒って剣を抜いても、後ろに退いて杖で身を守ることができる。このような状況下で、張良は黄石公との出会いを避けることはできず、試練と点化を受けるより他は無かった。このようにして、黄石公は地の利を利用して張良と出会い、適地を選ぶことが勝敗を決する重要な要素であることを身を挺して教えた。

第四の教えは機先を制する(相手より先に行動し、相手の勢いをくじく)ことである。黄石公は張良に「機先」の重要性を理解させるため、五日後の明け方に会うよう告げ、二度罵って追い返した。相手も動ける明け方に来るようでは論外で、一番鶏が鳴く前でも相手の勢いをくじくには程遠い。前夜から待ち伏せすることで絶対的に機先を制したと言えるのだ。

第五の教えは身を退けることである。潜伏している時には身を慎み、耐え忍び、事を起こす時には適地を選び、機先を制する。ここで問題となるのは事を成した後にどのように振る舞うかである。黄石公は張良に、穀城の山の麓にある黄色い石が自分であることを告げ、事を成した後に身を退けることを教えた。張良はこの教えを肝に銘じた上で、後は授けられた書を研鑽すれば十分であった。この書は『史記』によると「太公望の兵法」とされ、唐の李靖は太公望の「六韜三略」であると具体的に述べている。道教では別の説として「素書」であるとし、道教経典では「黄石公の素書」として言及され、兵法・謀略の他に占卜・神光の法などが記されており、張良は兵法と共に道教の法術を用いて漢朝の成立に貢献したとする。

身を退けることは道家の一貫した哲学である。『老子道徳経』に、功を成して名声を得た後に身を退けることが天の道であると説くように、道教ではいかに良く人生を終えるかが重視される。算命学の書である『鬼谷子命理前定数』(『鬼谷先生四字経』)も、人生の節目を大きく六つに分け、身を退ける「帰隠」を人生最後の節目としている。

黄石公は姓名を明らかにしなかったことから、黄色い石の精と伝えられるが、後世の儒者は疑義を呈するか否定的な立場を示す。道教では黄石公を仙人とし、古代の仙人赤松子、甚だしくは老子の化身とする説まであり与することはできない。実のところ、黄石公は石の暗示を用いて、功を成した後に身を退けなければ墓碑すら建てられない事態になると警告し、名利や財産に未練を残さず、即座に身を退けて命を守るよう教えたのだ。張良は黄石公の暗示を理解し、劉邦が天下を取ると恩賞を謝絶し、小さな留県を封地とする留候として封じられた後、病と称して世事を遠ざけ、仙人赤松子の道を学ぶと称して朝廷権力の中枢から身を退け、穀物を断って仙術を学んだ。

漢初の三傑の中で身を権力の中枢に置いていた韓信・簫何らは自身の名声の高まりが仇となり、謀反を恐れた劉邦によって即座に疎まれた。韓信は謀反の計画を立てたことが発覚して処刑され、簫何は最高位の相国に任命されて栄華を極めたが、謀反の疑いをかけられて監視対象とされ、一時は囚われの身となり、終生怯えて暮らすこととなった。一方で権力から身を退けた張良は身を保ち、死後に「文成候」と諡された。留候の地位は子孫に受け継がれたが、漢の孝文帝の五年(『漢書』では三年とする)、不敬の罪により留候の爵位が廃止され、張家の繁栄も長くは続かなかった。だが、張良の智慧と血脈は綿々と相続され、八代目の子孫である張道陵が正一道を立て、道教教団の創始者として偉大な功績を成した。歴代天師は血脈相続によって宗教指導者としての任に就いたが、政治とは適切な距離を置き、権力闘争に一切関与しなかったので、教団は中国歴代王朝の興亡の影響を受けることなく、現在の第六十五代天師張意将へと受け継がれている。

張良の昇仙伝説

張良は仙人赤松子の道を学ぶと称して身を退けたが、これを口実とするか、それとも本音とするかで見方が分かれる。『史記』及び『漢書』には、彼は穀物を避けて修煉をしていたが、呂后の説得により止めたとのみ記されている。一方、道教経典には彼の後日談が多く記されている。言い伝えの一つによると、漢朝成立から間もない頃、彼は「著青裙、入天門。揖金母、拝木公。(青裙を著て、天門に入る。金母に謁え、木公を拝む。)」という歌を歌う子供と出会い、その意を解して拝礼したという。後にこの出来事は、男仙のトップにあたる木公(東王公)の童が張良を点化するために降臨し、昇仙の啓示という第二の機縁を与えたものとされた。道教で説かれる昇天の有様にも「先拝木公後、謁金母、受事既訖、方得昇九天、入三清拝太上、覲奉元始天尊。(先に木公を拝みて後、金母に謁え、事を受くこと既に訖え、方に九天に昇るを得、三清に入りて太上を拝み、元始天尊に覲え奉ず。)」とあり、この言い伝えと一致する。

張良の昇仙を説いた道教経典は少なくない。彼が金丹を煉る功法を修めたとして「服金丹(金丹を服す)」、「金丹養就(金丹を養い就す)」、「服丹而解化得仙(丹を服し解化し仙を得る)」と説き、また、昇仙後に「伝経者」となったことが具体的に記されている。紫陽真人が師を探し道を求めて遍歴していた時、牛首山で張良から『太清真経』を授かったとされ、また、蘇君が道を成就した時に紫陽宮で張良に謁見し、『龍蹻経』十巻を授けられたとされる。

張良が属した仙界と仙職についても様々な言い伝えがある。古くは王屋山の道君として水死者を扱う地仙となったとされ、他にも黄石公と共に青城山の洞天仙卿の職に就いたとする説、太清道人の一員となったとする説、太清天で太玄童子として老子に仕えているとする説、紫陽真人となったとする説、仙人赤松子と共に玉清三元宮で祖天師張道陵を補佐しているとする説などがある。張良が昇仙後に署名したとされる経典によると、彼は「天枢上相」の職に就き、経典の校訂と釈義を担当しているとされる。『高上玉皇本行集経』には天枢上相張良の校釈本があり、『黄帝陰符経集解』に子房真人張良に関する多数の頌と解説が収録されている。張良宝誥にも「位正天枢之鎮重」「校経主宰」の語があり、これらの言い伝えと一致する。

道教は宗教信仰としての側面から、人々の困苦の解消を願い、万物と衆生を済度する「慈心於物」を旨とし、布教伝道や教誨という形態(言)を採らず、『太上感応篇』の基本道徳を日常生活で具体的に実践すること(行)を求めている。一方で秘伝修煉としての側面も持ち合わせているが、道の体得は困難であり、法術の使用は影響が大きく慎重を要するため、特定の人のみに開かれている。道教の行者となるには、人格的要件を満たした上で道縁が求められ、機縁を得た際には師匠からの教えを体得するに十分な眼識を持つ必要がある。師匠から弟子として認められて後に一定の過程を経て道門に入り、適時に点化を受け、自ら道を体得する。道教を「有拝無教(拝むだけで教えが無い)」の宗教として批評する向きが見られるが、点化の意義を理解していないナンセンスな論である。